アートメンチ.com

アートについて悩んだあげく ダメになっていくブログ。

言葉のボリュームは最小で叫ぶ

 

ミランダ・ジュライ Miranda July

1974年生 アメリカ出身

 

Reference/参照

http://www.art-it.asia/u/admin_ed_feature/7gSRi8NFmLvElTDofqrI

 

今月のビテチョーをサラサラと見ていて目に留まったミランダ・ジュライのテキストベースの作品。 Eleven Heavy ThingsThe Hallwayとタイトルされた、彼女のインスタレーション作品になんとなくときめいた。「今」な感じがした。

 

作品自体は2008-2010に制作された物で、美術手帖にインタビューが載っていたのは彼女の最新映画作品の為だったのだろうが、(私は映画はみていないので何も知らない。)その素朴なフォントのテキストがああ、それそれ、それが今、欲しかったんだよねーというような感想を持たされた。

コミュニケーションがテーマに設定されているだろう作品は多々あるだろうが、

 

「自身の頭の中の声とともに起こることの観客になってもらう」

 

というような作品意図を非常に上手く表現できている作品はなかなかない。

 

 

 

 

 

誰しもが声に出さずとも頭の中で考えたことのあるようなこと

 

 

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Installation view of The Hallway (2008) at the 3rd Yokohama Triennale, 2008. Photo Yoshinaga Yasuaki, courtesy of the Organizing Committee for the Yokohama Triennal

 

 

 

「The Hallway」日本語タイトルを「廊下」と名付けられた長くて狭い廊下に設置された文字。その文字が書かれたパネルを読みながら、時に選択肢を選び、時にオーダー通りに動いてみたりしながら進むと、いつしか自分の人生への問いかけへのようにかわっていくなっていく。

日本語パネルの裏側が英語パネルになっているようだ。

 

ARTItのインタビューで、それと読書体験との違いを聞かれ彼女は

 

読書をするときと同じだと思いますが、どうにかして参加者に実際にテキストの「私」や「あなた」になってもらう方法を探しました。もしテキストに「あなた」が上を見上げたらJOYの三文字が書かれていたと書いてあるのを読んで、あなたが上を見上げると天井にJOYと書いてある付箋が貼ってあったら、それはひょっとして——とても不器用な方法ではありますが——テキストの「あなた」はあなた自身、最も深奥のあなた自身なのではないかと思わせるかもしれません。そして誰にも覚えがあるような、誰しもが声に出さずとも頭の中で考えたことのあるようなことを書くように心掛けています。

 

と答えている。読書体験が観覧者的に楽しむ方法であり、この作品は文字通り参加者、プレイヤーとして自身の頭の中の声が語る物語に参加する体験方法なのである。

 

 

誰かの小さな声をささやく

 

 

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上: Two Faced Tablet drawing for the installation Eleven Heavy Things (2009/10). 下: Eleven Heavy Things (2009) as installed at Union Square, New York, 2010. Photo Brian Paul Lamotte.

 

次の作品、Eleven Heavy Thingsにおいては文章はもっと短くなり2,3行で、「これは私が指を入れた最初の穴でも最後の穴でもありません。」とかかれた壁に穴が開いていて、上の写真では男の子が指を入れている。なんの主張でもない誰の言葉なのかも判別しないようなテキスト。

 

私にとって「The Hallway」やヴェネツィアの彫刻作品は、観客にテキストを声に出して読んでもらったパフォーマンスと似ています。そのテキストを声に出して読んでいると、最終的にまるで彼ら自身の書いた告白のテキストかのように聞こえてしまうのです。しかし、新作[「The Hallway」や「Eleven Heavy Things」]では彼らに頭の中でテキストを読んでもらうことで、自身の頭の中の声とともに起こることの観客になってもらっています。

 

 

一体、全体誰の声、言葉なのだろう。上のように彼女はその作品に参加した参加者自身の告白のように聞こえてくるといっている。でも、気になる、一体、どこの誰なんだ。ソースはどこなんだろう。どっかからのパクリかも知れないじゃないか、オリジナルであると証明できるのかーーー、――――と私は思っているわけではない。というよりもその真逆で、そのテキストにはそれくらいの、誰かがその作品の穴に指を入れれば、その参加者の言葉になり、誰かがその廊下を通れば、いつの間にか参加者は、人生について自問自答していたり。

その素朴なフォントの短い文章はどこかの誰かが、そして誰もが一度は、考えた小さな小さな言葉のように私には聞こえた。

いわゆる情報化社会で、皆が皆、大きな声で革新的な情報を発信していて、大きな声が多すぎて、次はより大きな声で叫ばないといけない時代、この言葉のボリュームの大きすぎる中で、

小さな言葉をすくい、まるで参加者自身の言葉のように体験をさせてしまうミランダ・ジュライの作品に、私は「今」を感じたのです。